はじめは父の影響で鍼灸への道へ
私の父は、鍼灸整骨院をしています。小さい頃から多くの患者さんと接している父を見て育ちました。そのためか、高校を卒業後自然に明治鍼灸大学へ進路を決めました。
始めの3年間みっちりと鍼灸の勉強をしたのち、日本の鍼灸国家試験に合格しました。また専門学校と違って4年目は大学付属病院で臨床を中心としたカリキュラム、また本場鍼灸の発祥地、中国への研修もすばらしい経験でした。2004年、明治鍼灸大学を無事卒業しました。
叔父の影響でカイロプラクティックを志した
卒業後の進路はいろいろ悩みました。半分以上のクラスメイトは働きながら柔整や理学療法を学ぶため新たに進学していました。私も鍼灸以外に何か学びたいと考えていました。そこで長い間アメリカに住んでいる叔父のところへ行きました。叔父は、カリフォルニア州でカイロプラクティックドクターとして成功されており、人からも信頼されていました。叔父のところへは、何度か訪問したことがあったのですが、今回はカイロのことや人生のことなどいろいろ話を聞き、自分もこの道にすすもう、叔父さんのようなドクターになりたい、一からカイロプラクティックを本場のアメリカで学びたいと心から思えました。
日本帰国後、すぐに留学の準備を進め、独学でなんとかTOEFL試験(アメリカの大学入学に必要な英語の試験)に合格でき、ついにアメリカへ留学します。
最新のカイロプラクティックを学びに本場アメリカへ
はじめの半年は、イリノイ州の学校で集中的に英語の勉強をしました。ホームティ先のおじいさんとの会話、学校での英語の授業、そして毎日膨大な量の宿題、レストランではバニラ味のアイスを頼むといつもバナナ味でした(英語の発音難しい)。それでもがんばりました。その後、隣のアイオワ州で大学入学に必要な理系の単位を1年ほどかかり取り終え、無事パーマーカイロプラクティック大学へ入学。
人生でこれほど勉強したときはありませんでした。実習、試験、臨床の数々、カイロプラクティックのセミナーの参加や技術の練習、それと並行して計4回からなる国家試験の勉強。ほぼ毎日朝7時すぎからの授業そのまま夜遅くまで図書館にこもって勉強していました。最新のカイロプラクティック技術以外にも、基礎医学はもちろんのこと、人体解剖実習、神経学、哲学、栄養学、レントゲン学など学ぶことが膨大です。また、ここアイオワの冬は長く、とても寒くそして夕方4時ごろから暗くなり、さらに慣れない異国の地ということもあり、毎日寝る間も惜しんで勉強するも時折不安や辛さ、さみしさがこみあげてきました。
パーマー大学入学から約4年間で、実に合計323単位(4500時間以上)を修了し、無事パーマー大学を卒業できました。D.C.(Doctor of Chiropractic)の学位を得て、すべての国家試験も合格、続けて全米でも難関カリフォルニア州の開業免許を習得してようやくアメリカ公認ドクターとなりました。
その後、叔父の住むカリフォルニア州サンノゼ市へ移住し、そこで叔父のクリニックと別の町のクリニックでも同時に働きました。最先端のカイロを学べるセミナーなども参加しました。この辺りはシリコンバレーと呼ばれ、IT関連の方がおおく、アップルやグーグル、ヤフー本社などあり、多くのビジネスマンなどが定期的にカイロプラクティックに通われているのが一般的です。ここで2人の恩師(ドクター)にいろいろなことを学ばせていただいたことは今もかわらず感謝しています。
カイロプラクティックの普及のため東南アジアへ
そんなある日、ホンジュラス(中米の国)のあるドクターが産休の間かわりに入ってくれるドクターを探していると聞き、飛んでいきました。はじめての第三諸国での臨床です。カイロプラクティックはほとんど普及していませんでした。スペイン語はほんと片言でしたが、私の熱意が伝わった気がしました。ここでの経験が私を大きく変えました。在学していた日本人たちは、卒業後アメリカに残るか、日本へすぐに帰国していましたが、私は違いました。この本場カイロプラクティックの素晴らしさをもっと広めたい、いろんな人に知ってもらいたい。そこで私は第三諸国でカイロプラクティック普及のため東南アジアへ目を向け、縁あってまずインドネシアで働くことになります。
文化、言葉、宗教の違いで苦労しました
アジアの第一歩はインドネシアでした。そこはイスラム国家ですので、女性は男性から直接手でふれられることに抵抗があり、はじめの頃は検査や治療が全然かたちになりませんでした。そして言葉、英語は通じず現地人の通訳もきちんとしていなくて、患者さんとのコミュニケーションもしっかりとれません。やはり自分の言葉で伝えたくてインドネシア語も学びながら片言でも自分で積極的に話してゆくと、徐々に心を開いてくれました。また油や砂糖をつかった食べ物もおおく、人々の健康に対する意識は高くなかったので、エクササイズや食生活などのアドバイスもあまり効果はありませんでした。
今思えばここで2年間の苦労が次へ活かせたと思っています。
少しずつ自分の思い描くかたちに
マレーシアもイスラムの国ですが、マレー人以外にもインド人や華僑の人口も多くいろんな人種の人たちが住んでいます。これまでの経験や反省をいかし、患者さんと向き合ってひとりひとり大切に施術しました。女性の患者さんには、女性のスタッフに常に横にいてもらい、肌にはスタッフの手を借りて間接的に触れることに。言葉の壁は、できるだけイラストを使い、わかりやすい言葉を心がけました。ここではクリニック一つを任されていたので、現地スタッフとのコミュニケーション、マーケティングやイベントなども私を中心にアイデアを出しながら行い、地元でのスピーチや障害者の学校や癌患者さんへのボランティアの参加など積極的におこなった結果スタッフとの絆も深まり、また私たちの活動が新聞にたびたび取り上げられました。
マレーシアで2年の契約を全うし、契約更新のお誘いもありましたが、ある方からベトナムでカイロプラクティック専門のクリニックを立ち上げるので力を貸してほしいとのお誘いがあり、首都ハノイへ。ここでは、スタッフ20名以上の大きなクリニックのチーフドクターでした。レントゲン設備も院内に完備、多くの理学療法士が在籍、その上に立つ立場が私でした。私が来たことでクリニックを新しくし、一からのスタートで責任感も大きかったです。私は患者さんをケアすることを一番とし治療に専念させていただきました。ベトナムは仏教国で親近感がありましたが、ベトナム語が難解で発音がとても難しく通訳を通してすべての患者さんに接しました。はじめからはうまくいきませんでしたが、徐々に多くの方から信頼されいつしかテレビでも紹介されるようになりました。今では、ハノイ一のクリニックになっています、その先だてに貢献できたことをうれしく思っています。
そして開院、かわらぬ想いで
ベトナムでは月日がはやく過ぎ去り、毎日非常に多くの患者さんを診させていただきました。東南アジア3か国、約7年間妻の支えもあり、そして現地の人々の助けがあってこそ、当初の想い、カイロプラクティックを第三諸国で広めたいという目標は自分なりにほぼ達成できたと思っています。
そして自分にはまだやることがある。それは、本場アメリカで学んだカイロプラクティックを、自分が海外臨床で10年かけて得た知識と経験を自分が生まれ育った日本で伝えたい、カイロプラクティックを通じて日本の方々に貢献したい、日本へ恩返しをしたい、という想いでした。海外生活が長かったこともあり、特に私はそう思ったのだとおもいます。ベトナムを去る時はたいへん惜しまれましたが、自分の想いはかわりませんでした。
その想いを胸に、2020年2月に大阪本町に無事開院致しました。これからも今までとかわらぬ想いで一人ひとりを大切に日々カイロプラクティックをさせていただいきたいと思っております。